あの歌の橋は途中で終わっていた!
アヴィニョンのまちことは知らなくても、「アヴィニョンの橋の上で」という童謡は聞いたことがあるという人、多いのではないでしょうか。私もそうでした。
歌に出てくる「アヴィニョンの橋」です。
スイスを源流に地中海まで続いているローヌ川にかかっています。
あれ? なんかおかしい・・・と思いますよね。
そうなんです、橋が途切れているんです。
橋の正式名は「サン・ベネゼ橋」。
橋の名前になっているベネゼという羊飼いが、天使から「橋をかけなさい」とお告げをもらい、建造を決意。数十人の男が束になっても動かなかった大きな岩を、ひとりで川に投げ込み、橋の基礎にしたといいます。
こうして1177年から8年の歳月をかけて橋は完成しました。当初の橋の長さは900mもあり、対岸のまち「ヴィルヌーヴ=レザヴィニョン」とアヴィニョンをつなぎました。
対岸までつながっている頃のサン・ベネゼ橋。1575年に出版された『Civitates orbis terrarum』に掲載。
その後、橋は戦争やローヌ川の氾濫によって何度も落橋と修復を繰り返しました。
しかし修復は17世紀に打ち切られ、現在に至ります。まさかの放置!
橋の先端で記念撮影ができます(コロナ禍仕様)。
橋の上は、プロヴァンスの強い日差しを遮るものがないので、帽子は必須です。
冒頭に出てきた歌「アヴィニョンの橋の上で」は、落橋と修復を繰り返していた15世紀頃につくられたものです。
アヴィニョンの橋で♪ おどるよおどるよ♪
アヴィニョンの橋で♪ 輪になっておどる♪
このサビの部分、耳に残りますよね。
橋の上は輪になって踊れるほど広くはないのですが、当時のアヴィニョンの民衆は、ローヌ川のほとりで夜な夜な歌い踊るほど、浮かれていたといいます。
なぜって?
それは、ローマ教皇がこのアヴィニョンにいたからです。
ローマ皇帝がもたらした華やかな時代
1309年から1377年までの69年間、7代のローマ教皇がアヴィニョンにいました。
ローマ教皇といえば、キリスト教カトリック教会の最高指導者。
本来ならローマにいるはずですが、フランス王との勢力争いによって、アヴィニョンに移されたのです。
この期間は「アヴィニョン捕囚時代」などと呼ばれています。
ローマ教皇がいる間、アヴィニョンのまちはおおいに栄えました。
「教皇庁宮殿」をはじめ修道院や教会などの建物が建ち、ヨーロッパ中から芸術家たちがやってきました。
右の建物が教皇庁宮殿、左は「ノートルダム・デ・ドン大聖堂」です。
どちらも巨大で、見上げると口が開いてしまいます。
教皇庁の正面は広場になっています。地下鉄の入り口もあり、人の行き来が激しいアヴィニョンの中心地。
写真は撮っていませんが、教皇庁の中には12ユーロで入ることができます。受付で渡されるタブレットで日本語の案内も聞けます。
教皇庁に向かって左手には「プティ・パレ美術館」があります。
建物は14世紀にローマ教皇個人の邸宅として建てられたものです。
入場無料ですが、見応えあり。
例えばこれはボッティチェリの作品です。
ボッティチェリを無料で見られるなんて、日本では考えられませんよね。
ここまでで紹介したサン・ベネゼ橋、教皇庁宮殿、ノートルダム・デ・ドン大聖堂、プティ・パレ美術館は、「アヴィニョン歴史地区」としてまとめてユネスコ世界遺産に登録されています。
一つひとつが巨大なので、全部めぐるとかなりの距離です。歩きやすい靴で行きましょう。
500年経っても続く余韻
まちは地元の人も観光客も入り混じり賑わっています。
かつて染め物屋街だったタンチュリエ通りや、ミニ料理教室が開かれる市場(コロナ禍では中止)などの見どころがあります。
ブティックやギャラリーのセンスの良さは、さすがかつて芸術家が集まっていただけあるな、と思わせます。
こういう、まちかどの小さなレストランに惹かれてしまう。
教皇庁宮殿の裏手の小道です。岩と建物の境目がわかりません。
アヴィニョンのまちは、歴史とともにありました。
もちろん、ほかのプロヴァンスのまちにも歴史はあるのですが、アヴィニョンはひときわ歴史の色が濃く、ローマ教皇がいた時代の余韻がいまも続いている感じ。
500年以上経っても消えないほどの賑わいとは、どれほどのものだったのでしょう。
当時の雰囲気を想像すると、あの軽快な歌がよみがえります。
アヴィニョンの橋で♪ おどるよおどるよ♪
アヴィニョンの橋で♪ 輪になっておどる♪